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1999年8月

教育とは、国家百年の大計と言われるが、
日本の教育の歴史は果たして
その通りであっただろうか?

◆徳川の勧学
室町時代より、漸く発揚の気運を見せた教育熱も、その後に相次ぐ戦乱に抑圧されて、潜伏のやむなきに至った。然るに徳川幕府の創設なすや、馬上に天下を取った徳川家康も、天下は馬上で治むべからずと覚り、文教の奨励に余力を剰さなかった。戦乱の後の治世には大いに文教を鼓吹して、倫常を明かにするに如かずとは徳川幕府当局の了見であった。

しかしこれを端的に言えば、興学の眼目が御家萬代の為であったから、対象を武士階級に限定されたのは蓋し已むを得ない事であった。

一例に林道春が幕府一点張りにして、家康を神君と称し、畏れ多くも太神宮を以て呉の太伯とかいう僻見に対し、能澤が抗したるを以て、幕府は勿論、林家は能澤を邪説異学となした。

◆明治新政府
政府は明治4年7月、文部省を置き、翌5年8月3日「学制」発布した。この制度は、明治新政府の国是を教育上に実現せんとした。具体的方案は即ち新政府の教育指針で、頗る画一的、強制的なものであった。

「学制」は、規模・秩序において整っていたが、余りにも画一的で、当時の民度に対し高遠に過ぎ、実施が容易でなかった為、明治12年9月29日太政官布告を以て「教育令」の公布を見るに至った。

明治12年12月「岡山区小学校教則」に幼稚科の課題を定めている。

明治18年、文部省は幼稚保育規則にそって府県に幼児保育法を講ぜしめた。

明治の文教施策は、皇国史観に基づく富国強兵の為の施策と合致する。

教育が行われて来た、徳川時代の士農工商の差別が、明治から昭和の敗戦までの官尊民卑の政策の中で、上に追従する風潮に形を変えて残り、天皇制への絶対服従という政治権力にとって都合の良い教育政策が遂行された。

満蒙開拓、満州事変、満州国独立、日支事変の流れの中で、大東亜戦争・第2次世界大戦を聖戦と称し、国民は天皇の赤子であるとして、一億玉砕を旗印にかかげ戦った戦争は、原爆の悲惨、沖縄の悲劇、ルソン島玉砕、日本の殆どの都市は焦土と化し幾百万の人々が戦争のために死亡した。敗戦を迎え、戦後の日本国民は衣もなく、食もなく、住もなく塗炭の苦しみを味わった。

◆戦後の民主主義教育
アメリカの占領政策による日本の新しい教育が発足した。それまでの皇国史観に基づく教科書の弾圧に始まり、6・3・3制教育体制、教育基本法の制定、学校教育法、学校教育法施行令、同施行規則のよる戦後教育が再開された。

占領政策は、日本が軍事国家として再起できないように、軍閥の解体は勿論、財閥の解体、農地解放、教育改革が焦点であり、民主主義の名の下に骨抜きの教育が施行されたと思っている。

今の学校崩壊は、50年前のアメリカの占領政策からの当然の結果であり、むしろこれを目指して教育改革が行われたのではないかとさえ思っている。

この50年間、独自性を失った教育の中で、本筋である人間育成は忘れ去られてきた。加うるに、自己中心的な社会の中で他と協調して、地域に根差した住みよい社会の構築という夢も失われ、行政も経済優先の歴代内閣は、人間育成よりも産業開発や経済発展にのみ貢献する教育、特に理工科系の科学技術教育が優先され、資格・学歴重視の制度の中で人間性や意欲よりも学歴を優先する社会が構築され、競争原理に基づく教育の中で日本社会が造り上げられてきた。経済優先の社会構造の前に、豊かな潤いある日本の人間社会は影をひそめてしまった様に思われるのは、決して私だけの感想ではあるまい。

教育を論ずる人は、教育は国家百年の大計と言われる。まことに尤もなことであるが、徳川幕府による教育施策を見て、真に国家百年の大計であったと言えるだろうか。そもそも国家とは何なのだろうか。

権力者の自己防衛・自己防御の為に教育を利用した観もなきにしもあらずである。

徳川時代は学校教育として制度化された教育はなく、庶民の教育施設としては、寺子屋がある。寺子屋が純然たる庶民の教育機関として大いに、活用されるに至ったのは、庶民の文化欲求によるところも大きいだろうが、一面には幕府や藩主などの支援奨励があったのも見逃せない事実である。

幕府が寺子屋教育に対して積極的に指導にあたったのは8代将軍吉宗の時代である。しかし池田光政はそれ以前に庶民教育機関としての寺子屋の存在を重視し、保護を加えた。

寺子屋の普及は、岡山県に於いては寛政から天保に至る55年間に189箇所、弘化元年から明治初年までの25ヶ年に720箇所、明治5年に存在した寺子屋の総数は1031箇所にのぼり、長野・山口に次ぐ多数を記録している。

明治維新後、明治・大正の時代の教育について具体的な調査資料を知りませんが、私が小学校に入学した年が昭和4年でした。当時は小学校6年までが義務教育で、私の同級性は33名でした。女子17名、男子16名で、女子のうち高等女学校に進学したのはわずか2名。小学校の高等科に進んだのは1名で、残りの14名、殆どの人が紡績工場に就職しました。男子は16名とも高等科に進み、そこから3ヶ年の中等学校に進んだのは2名。後は殆ど就職し、社会人として仕事をする時代で、貧しい村では中等学校に進学できるものは一割に満たないのが実情でした。今の様に高等学校や大学に進学できる人は村には殆ど居ないという状態で、受験競争などは全く考えられない時代でした。また、幼稚園などは殆どの市町村にはありませんでした。

昭和13年になって、軍事的な目的で青年学校令が施行され、小学校高等科を卒業後、青年学校が義務教育として科せられるようになり、男子は5ヶ年青年学校に通う事となった。女子にも3ヶ年の就学が義務づけられた。

戦後の学校教育の改革は6・3・3制の教育制度で、小学校6ヶ年、中学校3ヶ年が義務教育となり、次第に高等学校に殆ど進学する時代に変化して、そこに幼稚園の2ヶ年を加えると実に14ヶ年の教育期間が一般化した。大学の進学率も増加し大多数の人が大学や短大で教育を受けている。保育園の0歳から大学卒業までを数えると実に22ヶ年の長きに亘って教育を受けることになる。

教育に必要な経費は、文部省予算、各自治体の予算とも莫大であり、また個人が学費として納付したり、親元を離れて進学するための生活費なども合わせると、想像を絶するほどの金額が教育のために投入されているのがわかる。これほどの貴重な時間と多額の金銭を投入して、果たしてそれに見合った成果が得られているのだろうか。教育は先行投資というが、その先行投資が充分報いられているのだろうか。

今、学校では中途退学者が増加している。岡山県でも高校1校に匹敵する人数が中途で退学している計算になる。

なぜ、途中で退学する生徒が出てくるのか。進学が嫌なのであれば最初から希望し入学しなければよいと思うが、進学の意義や、なぜ勉強するかの目的意識はどこにあったのだろうか。目的も何もなく、人が進学するから進学する、生まれて16・7年経っても自立できていない若者達の様子が窺われる。今の学校教育の現状はどうなっているのか、教育とは何であるのか、この様な教育社会が生じた原因は何であるのか、どうしても無視のできない大きな問題であると思う。

文部省の学校制度に問題があるのか、家庭の中に原因があるのか、教育者・担任に原因があるのか、それらを検証し、根本解決を図らなければならない時期にきている。その為には、教育の本質・意義について考え、新しい時代の教育の在り方を明示すべきである。

教育の大切さは、すべての人が異口同音に口にする。しかし、その意義をどう捉えるかによって、全く時代の様相は変わってくる。徳川政権下の教育は、明治時代を迎えるに当ってどのような成果を見せたのか、明治憲法下での教育によってどんな成果が国や国民に得られただろうか。

そして何よりも、今の時代の教育がどんな成果を生んだのか、どんな教育が今望まれているのか、我々が検討して行くべき重要課題であると思う。

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