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社会は好むと好まざるにかかわらず、古い体制は打破され、新しい体制に移行しようとしている。政治家や官僚など行政者が旧体制に固執しているうちに行政改革や財政改革が遅れ、大変革をしなければ社会全体が崩壊するほどの大問題になってきた。
今までのように国民の自由な活動を束縛し、規制管理をすることの中からは、新しい発想は生まれない。開拓を夢見、創造することによって人類社会に貢献しようと思っても、法の規制が夢の実現を妨げる。
建築にしても昔は地域によって集落や家の形は異なっていた。職人や施主のそれぞれの考え方でそれぞれの住む人に適した家屋が建ち並び、東北、北陸、薩摩風情などとその地域地域での気候・風土・伝統に沿った建築で、その軒並みを眺めるだけで、その地域文化がうかがわれ、心和む風景を作り上げてきた。
今日、北は北海道から南は沖縄に至るまで、建築されるのはどんな建築物だろうか。その時々の流行に即して画一的で、施主の希望などは全く無視され、要求しても建築基準法に照らして認められず、それらの条件を満たそうとすれば、ただでさえ莫大な建築費用がさらに大きくはね上がる。ビルなどにしても画一的でない個性的なものを、と言っても、個性の意味をはき違え、ただ奇抜なデザインのものを建てればよいと言う風潮になり、結局無個性な街なみが日本全国同じように画一的に建ち並んでいるように思う。
そのように人間も学校教育の画一化の中で、義務教育として枠の中にはめられ、束縛されて無個性であるように変えられてきた。文部省が作成した教科過程によって、知的発達のみを追い求め、その度合によって人間が評価され、その評価が地位や収入に大きく影響するという体制が出来上がり、学歴社会、受験競争社会が定着した。そのような受験競争で突出したエリートが中央・地方の官僚となり、また政治・経済のリーダーとなって今の日本を構築している。
日本は敗戦による危機存亡を乗り越え、驚異的な経済発展を遂げた。かつては日本は無名の小国で、東京オリンピックの際、初めて日本という国があることを知った外国人も多かった。今は経済大国と呼ばれるほどの一大飛躍を遂げた日本であるが、再び大きな危機存亡の時代を迎えている。
数々の問題が表出しているが、これはすでに10年以上も前から官僚諸賢は充分承知し、国民からその実態を隠蔽固塗して責任を回避してきたために処置が遅れ、溝が深まり大きな問題となってきたものである。そのため金融政策に膨大な国費を投入する結果を招いている。このような金融財政をしてきた大蔵官僚が、天下りしてあらゆる銀行の心臓部に入り込み、地方銀行にも関係し、国民に大迷惑をかけてきた。エリート意識から生じる独善と、国民からの批判を怖れた自己防衛の結果が今日の事態を招いているといえる。
日本の繁栄を築いたのは、学歴社会の頂点に立っている人達ではない。今日の日本を築いたのは、敗戦の苦難から立ち上がり、汗を流し心を磨いてきた人間達である。廃虚の中から国民の力を結集して今日の繁栄は築かれた。
昭和20年大東亜戦争の終結は、明治維新からの体制の歴史の終結でもあった。幕藩体制が天皇親政の名の下に崩され、その中から四民平等という新しい思想が生まれて庶民政治へつながるための変革が明治維新であった。しかし次第に天皇の権威を借りて官僚制度・軍閥政治が強固になって、その強い波にさらわれるように、一億総玉砕、本土決戦を旗印に勝ち目のない戦争にのめり込んだ。当時の東絛軍閥内閣は反対するものを弾圧・抹殺し、そしてこの国は焦土となる存亡の危機にさらされた。開発されたばかりの原子爆弾は広島・長崎と2つもの都市を直撃し、多くの犠牲者を出した。死者も多かったが、生き残った者も後遺症で何十年も苦しんできている。
敗戦後、このような戦争を起した責任を問われ要職にあった者は追放され、財閥は解体し、農地解放、教育改革が矢継早に行われ、国民主権の民主主義社会に移行した。家庭制度の崩壊、指導者のない、秩序のない混乱のなかで、新しい日本を模索し、日本の復興を目指し、食もなく衣もなく住もない、伝統さえ根こそぎ倒された感のある日本の再生に取り組んだ。困苦に耐え、復興の意欲に燃えた住民の力が合わさり、努力が結実し、生活の安定がなされた。
戦後、すべてが危機に瀕していたが、国を滅ぼす行政を担当した日本の官僚には、進駐軍の責任追及は及ばず、むしろ官僚機構を占領政策遂行に上手に利用されたが、国民の意識の中には官僚への怒りと政治不信が強く存在していた。
青年運動をしていた私達は、官僚排斥、行政責任の追及をし、官僚が公僕として正しく機能する体制作りを念じていた。しかし民主政治がその理念の通り行われていれば良いが、衆愚政治に陥ることが懸念された。
戦後日本の政治が、本当に民意が伝わる政治になるだろうか。
当初は立候補者を選定してお願いし、支持者も手弁当で自分達の代表として議会に送るケースが多かったが、民主主義は数の力がものを言う。そのために票数獲得が最大の課題となり、個々の人物ではなく、如何に票を集めうる力を持っているかが問題にされ、結局金の力と組織の力を持つ人間でなければ当選できないようになって、政治が狂ってしまった。
こうして選ばれた人々は、庶民の生活、庶民の苦労、そして庶民が何を望んでいるのかが分からず、その実態を知ることもなく、雲の上の人達となってしまった。
素うどんで昼をすまして活動している人達の気持ちが、特に高級官僚や中央政界で活躍している政治家には実感としてわからない。
今、国を挙げて子育て支援問題を提起しているが、観念的には理解されていても、具体的にどう支援するかには確たる明言はなされない。
一番大切なのは実践であり、そのための具体策である。支援を必要とする親の気持ちが分からないと子育て支援は的がはずれて意義をなさなくなる。
子育て支援も始まって5年以上経っている。子育て支援モデル事業について、認可を受けた施設1ヶ所につき年間800万円の補助金が出ている。しかし、そのモデル事業が、子育て支援にどれだけ貢献しているのか、家庭保育をされている子ども達がどれほど恩恵を受け、親がどれだけ喜んでいるのかが全く見えてこない。行政も、子育て支援の在り方を各施設に対してどう指導しているのか、その結果子育て支援事業が市民から賞賛される事業となっているのか明示していただければと思う。岡山市の子育て問題が、市民の期待に応えるものになるよう心から願っている。
岡山県は赤字財政で財政再建のため、新規事業は極力しないとのことである。県民から集めた税金は職員給与と過去の事業の赤字返済のために使用されるとのことで、財政再建は重要課題であるが、事業減少するば県職員の仕事も少なく、多くの職員を抱えて、時間の空費をしているように思われる。この大切な時間を何か社会に役立てる方途はないものだろうか。
日本の社会を復興させたのは、過去の明治維新からの努力との伝統との積み重ねであり、その伝統を汲んだ気骨のある人達が営々と築きあげてきた結果である。しかし、今の官僚諸賢はあたかも自分達の力でできたかのように錯覚している。しかし、実践を知らない人に創意や工夫もなく、机上の空論で日本を崩壊寸前に導いてきたのはそのような人達ではないだろうか。
歴史は循環する。
今、それぞれの立場に立つ者が、その本来の使命を痛感し、人間の原点に立ち帰って、子孫のために何をなすべきかを模索するべき時である。過去の危機は自分の使命を真剣に考えた人達の努力によって回避された。今、その使命を果たすべきは私たちすべての国民である。一人一人が何をなすべきか真剣に取り組むことによって21世紀の曙光が見えてくる。
なかでも保育界は大きな役割を担っている。今まで、「子育ては母親の責任」と決めつけられて、問題が起ると母親の責任、家庭の責任が追及されてきた。もちろん家庭には子育ての責任がある。しかしかつては地域社会や血縁によるバックアップがあり、母親の負担も軽減されていた。今は、社会の人間関係が切り離され、家庭の責任だけが重くのしかかっている。このような状況で充分な子育ては困難である。
子育ては国の人材育成にもつながり、国を挙げての大事業である。その子育てに具体的なノウハウを提供できるのは、子どもの心を知り、共に生活しながら実践を積み重ねてきた保育園をおいて他にはない。
高島第一保育園も、創立33年目である。かつて園児だった人が父親になり、母親になって子どもを通わせている。お祖父さん、お祖母さんが送り迎えされて3世代のつながりができている。
友達や親同士のつながりなど、横のつながりも生じ、人間関係が濃密になれる条件もそろっているのが私立保育園である。
子育てを通じて知り合った人間関係が、心が通じ合い、話し合え、さまざまな共通点を見い出し、地域が一体となって活動出来る基盤となる。子ども達のよい思いもこの人間関係の中から育っていく。大人になっても懐かしく思い出され、心の故郷としていつまでも大切にされる。そんな地域作りが、保育園が核となって、その機能を充分果たせば可能になる。
そんな開かれた保育園を目指して、育児相談事業、園庭開放、親子で参加する保育体験「ドレミファパーク」などさまざまに取り組んでいる。いずれは老人との交流の機会も作り、また放課後保育(学童保育)をさらに充実させたいと願っています。
かつて小学校がそうであったように、保育園が地域をまとめ、活性化させ、人と人とを結ぶ大切な核になるために、これからも精励していきます。
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