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今、行政は改革に取り組み、日本の変革を図ろうと政治は動いているが、いろいろなことを棚上げしている状態では、将来を洞察し、抜本的な改革は行われ難いのが人間社会の常でいたしかたない。しかし、日本の将来を憂い、そのための行政改革がうまくいくように心より念じている一人として、やはり物申さずにはいられないものがある。
行政改革の最も大切な柱のひとつは教育の改革である。教育は人を作る。そして人が社会を作っていくのである。政治も経済も文化も人が作ってきたものである。だからこそ、教育の在り方をもう一度見直し、人の心、日本人の心を育てることが、国を興す原動力となる。
現在の日本を省みると、経済成長には成功したが、その中で大切なものを見失っているようである。
日本の教育には不信感がつきまとい、現実に教育の現場は荒れ狂っている。いじめ、登校拒否、自殺、少年犯罪の増加・悪質化など想像を絶する状況にある。教育の現場は、社会や家庭に責任を押しつけ責任を回避しようとしている。その教育行政の在り方、責任の所在を明らかにしない無責任さが今の荒廃に関連していると思う。
教育の責任を負わない教育者に、義務教育と称して保護者に就学の義務を負わせ、子どもを預け、その結果生ずる学校の諸問題に教育者もそれを管理する行政も責任を負わない。現状を認識し、前向きに問題に対処することが責任を果たすことであり、本当の謝罪であり、それが出来てこそ真の教育が芽生える土壌となるのではないだろうか。にも関わらず、教育の場を聖域とし、現実起こっている問題に目をつぶり、非を認めないままでは教育は立ち行かなくなるばかりである。そして保護者たちも『先生』という権力の威を借りた相手に子どもを握られているという遠慮から、口を閉ざし泣き寝入りをしてきたことも今日の状態を招いた原因の一つではないかと思われる。
本邦の学制発布125年、日本の近代化に対し教育は大きく寄与し、文盲はなくなり、教育の機会均等は全国に浸透し、この実績たるや世界に冠たるものである。この教育の熱意と努力、そして成果は高く評価されるべきものであるが、国家権力に規制された教育のマイナス面も生じてきている。戦前の教育は、富国強兵・天皇親政という国是がついには『一億玉砕』という異常なスローガンと惨めな敗戦を引き起こしたが、戦後の教育も、占領政策の、ただ闇雲な戦前教育の否定を受けて、それまで培ってきた日本の精神や戦争からの教訓さえも破壊するものになってしまった。その後を、ただアメリカの教育を形ばかり模倣して埋めてきた。そのためアメリカで生じている悪弊が日本にも入ってきた。民主主義・国民主権の意味をはき違え、権利ばかりを要求する体質、物質的な繁栄ばかりを求める傾向。その中で、心というものは見失われ、教育も形骸化して、サラリーマン教育者が大半をしめる昨今である。
教育の道を歩む目的や意識に欠ける、特に落ち度がなければ定年まで職に就いていられる安心感。教育者ほど優遇されている職種も少ないだろう。その中で安定を求めて冒険をしない、マンネリ化した教育。そのような風潮が多勢を占めている。
しかし、反面、教育という仕事は、実に無限の可能性を秘めた、やりがいのある仕事である。四六時中が教育活動の場面なのである。自分がやればやっただけ、成果につながってくる。それは大きな喜びをもたらすはずである。こんなにやりがいのある仕事が他にあるだろうか。その機会を与えられていながら、一体、教育者の何人が自覚し、努力し、成果をあげているのだろうか。その実態がどれだけのものか問いただしたい重大な問題である。
教育改革とは、教育者の意識の変革より他にない。子どもや親から信頼される教育者になっていくことである。
子ども達に喜ばれる教育者となるべき時代を迎えている。教育もサービス業である。媚びるというのではない。自分の立場を子どもより上に置いて、言葉だけは民主主義を唱えても虚しい。対等の立場で、自分の出来ることを精一杯していく教育者こそが、真に民主主義的な教育者ではないだろうか。そのような本物の教育者こそが子どもの心を捉え、喜ばれるのである。
高島第一保育園を開設して31周年を迎えている。設立当初は、地域にも保育園の必要というものが理解されず、ただ救貧対策の施設と思われていた。公立と私立とが制度上は同格であっても、保護者は公立を選択し、私立は公立に行けなかった人のための一時的な受け皿で、公立に空きができればそちらに移るほど私立は信用が薄かった。特に岡山県では、公立優先の傾向が強く、学校教育に於いても、小学校中学校は殆ど公立、高校も公立の方が評価が高く、私立はすべり止めで、公立に入れなかった生徒のためにあるような状態が今も続いている。
しかし、昭和50年代に入って、出生が毎年6〜7万人ずつ減少し、私立の保育園が危機を迎えた。私は昭和56年に岡山市の保育園・幼稚園も含め、その実態を調べ、予想をしたものである。
そして平成に入ってからの岡山市の状況は、危機を感じていた私立の保育園は予想に反して定員は充足され、逆に公立の保育園は減少した。さらに公立の幼稚園の減少が著しい。
一月中旬の入所申請の希望は、私立では常に100%を大幅に超し、公立では100%に十数%下回る状態が続いていて、かつてとは正反対の様相を示している。
公立が敬遠される理由は、義務的である、マンネリで活力がないとか、心が通わないとか言われ、また普通の保育事業以外の一時的保育や延長保育・乳児保育などへの積極的な取り組みに欠けるなどが挙げられる。
従来は保育園は幼稚園の準備施設という風潮もあったが、今はそうではない。幼稚園の幼児教育が自由保育と称する放任保育であったり、教育者が高齢化するにつれ活力が失われたりマンネリ化し、子どもが育つ環境ではないなどという手厳しい批判も出てきている。
今日の日本の課題は人間育成であり、そのカギは幼児期に於ける教育がどうあるかということである。
民間保育園が保育実践を繰り広げた歴史の中で、子ども達から貴重な提言を一杯受けてきた。幼児から学び、現状を把握した上で保育を構築し、保護者と胸襟を開いて人間育成に当たらなければ、教育改革も成らず、ひいては行政改革も成らない。現状のままでは日本民族は衰退していくしかない。
私達民間の保育者は、重大な責務を担う。誇りをもってこれに立ち向かい、遂行したいものである。
今の日本は公立指向から、民間の自由な発想からなる保育・教育への転換の時期である。教育基本法や制度の枠を撤廃し、無意味な規制があれば緩和して、民間の英知の中から新しい時代を模索し、教育を考えるべき時である。
日本の教育は占領政策に基づき、日本人の心を失わせる一因となったが、その責は米国でなく、文部行政が負うべきである。その意味からも公立優先の意味、義務教育制度の意味、現在の状況がなぜ起きているのか、どのように起きているのかを考えて、その上で対処しなければ混乱はおさまらない。学歴社会もまだまだ強い支持を得ているが、徐々にそれを疑問視するひとも増えてきている。また、幼児教育の重要さも次第に理解されてきている。このようなささやかな流れが、やがて大きな意味をもつようになっていくだろう。
高島第一保育園でも、保育内容の一層の充実、保護者との共通理解を図り、のびのびとした明るい健康な心と体を育てて行きたいと思っています。ご理解とご協力をお願いします。
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