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風薫るさわやかな5月から、麦秋、梅雨の候に変わる時期になりました。日本は自然に恵まれ、一年中倦むことなく季節が変化して楽しい土地であると思う。この自然の中から多くのことを教えられ、感性の豊かさを育まれて人が育ってきた。
自然は人間を慰めてくれる。腹立ち、苛立ち、むしゃくしゃしていても、自然を眺め、又は山に登って大声を出してみればよい。返ってくる木霊に耳を傾ければ心が静まり我に返る。私たちは自然の力の恩恵に預かって生きているのである。
この素晴しい自然に恵まれた国、日本に生を受けた私たちは幸せなのだと感じ、自然に感謝する心が私たち人間の心を育ててくれる。
しかし、今、私たちの心の中から、自然が遠ざかりつつある様な気がする。麦秋と言う言葉も現実から乖離して、豊かに実った麦畑を目のあたりにすることもなくなった。
日本では昔から米作り、麦作りの二期作を行い、狭い国土でも人々の食を支えてきた。麦の収穫のあとに田植えをして米を作ってきた。その麦は五月の終わりから六月の上旬に熟して黄金色となり、これを米の収穫期の秋に対して麦秋と名付けられてきた。かつては日本各地津々浦々で黄金色に輝く麦畑が見られたが、現在ではわずかな地域でしか見られない様になってきている。
農家にとって5月下旬から6月上旬は農繁期にあたり、麦の刈取り、脱穀、田植えの準備で、まず田んぼを人の手で耕し、それから縄を引いて一株一株手で苗を植え、その忙しさたるやまさに猫の手も借りたい時期であった。しかも一歩間違って麦の収穫より梅雨が先に来れば、麦が収穫できず、その上長雨であればまた麦が芽生えてしまうので、天候や暦にも神経をとがらせて、たいへんな苦労をして農家は日本人の食生活を支え続けてきたのであるが、今は一変して麦畑どころか、休耕田と称して米も作ってはいけないといわれて生産調整がされて、活躍していない農地を多く見るようになった。
日本の食糧の自給率は半分以下となり、ものによっては殆ど輸入に頼っている。市場に行けば、野菜・果物・魚・肉類がさまざまな国から集められている現実に出くわす。椎茸などは生産コストの安い中国産などに遂われ競争から脱落して、すっかり生産が落ち込んでしまっている。
食糧は人を育てる、人間の心を育てる力である。生まれ育ったところの味、家庭の味、旬の味がその人の拠って立つ基盤をつくり、そんな中から日本人の心が育ってきた。
歩く時代は3里(12キロ)四方から取れた食料しか口にすることはできなかった。この範囲内からの食糧を工夫し、その旬の食物を大切にし、多く取れたものは漬物や乾燥させて貯蔵して食生活を工夫し、また節句やお祭りなどその地域での娯楽や休養や会合、団欒の日を設定し、楽しみやご馳走を工夫して地域の交流をしてきた。
日本は農耕文化と言われ、食料は自ら作り、衣類は綿を作り蚕を飼い、糸を紡ぎ、機で布を織り、着物を縫い、自給自足の経済の中で生きてきた。必要なものは工夫し、作ろうとする中で生きる力が育ってきた。
今、学校教育の中で生きる力を育てる教育が提唱されているが、今ごろになって文部省が唱えることであろうか。教育行政は今まで何を目標にしてきたのかと思いたくなる。今までの教育の結果としていじめや不登校、小学生にまで自殺者が増えるなど、義務教育を課している国の責任も大きいが、教育現場や行政に携わる人々の責任も大きいと思う。
昭和50年代の頃から、高島第一保育園の保育目標は『生活に根ざした保育を大切にする中で、心と体を鍛え、逞しく生きる力を育てる』というもので、この目標に向かって保育実践を積み重ねて来ている。
『生きる力』とは理論や理屈ではなく実践であり、体験であり行動であり、毎日の生活そのものである。生活重視の保育が定着しないと生きる力は生まれてこない。
乳幼児期に様々なものや自然に触れ感性を養うことが大切であると思っている。自然に対する感覚も人それぞれ異なっていて、親の感じ方が子どもに伝わり受け継がれていく。子ども達にどんな素晴しいものが伝わるか、どんなことが受け継がれていくのか。そんなことを想う。
早起きをし散歩をして、朝の自然の中で、空気の匂い、太陽の輝き、雲の流れ、自然から多くの心が伝わってくる。木から花から、私たちに色々と呼びかけ、語ってくれる。悲観ばかりしないで頑張りなさい、良いことがいっぱい待っているよと、私たちを励ましてくれている。勇気を出して行動してみれば、自分の思うとおりに道は切り拓かれていく。自然は私たちを愛情豊かに抱擁してくれている。
人間も自然の一部であり、だれでもこの心を持って生まれてきている。乳幼児期にどのようにこの心を育てるか、周囲の人間が如何に注意深く見守ってやれるかにかかっている。
子ども達は素晴しい能力を内在させている。この能力を発揮できるかできないかは乳幼児期の環境にかかわってくる。乳幼児期が人間生涯に亘る岐路であるといっても過言ではない。『十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人』というが、私はすべての人が神童として素晴しい才能をもって生まれてくるという意味と解している。誰もが神童であるのにその才能が充分発揮されず、埋もれてしまうことがあまりに多い。それは、育てる環境の中で自然を無視し、人為的に手を加えすぎてきた結果なのではないかと思う。
直感や感性は主に脳の右半分、暗記や理論は左半分の領域でなされているというが、学校教育は左脳しか発達させ得ないのではないかと思われる。右脳が育たないどころか、発達を阻害させている要因が学校教育にあるとさえいわれている。
自分の限られた知恵や知識だけで考えないで広く多くの人の声を聴き、子育ての原点を探究したいものである。
保育の中で大変むずかしく定着しないのが、飼育・栽培である。小動物や小鳥、魚や虫を飼ったり、草花を育てたり野菜を作ったりであるが、好きな人、その心を持つ人でなければできないことである。
生き物を育てることは愛情がないと育たないし、世話や管理もおろそかになる。昔は生活のなかで当然のこととして育ててきたものである。朝晩の水やりも身についてしまうあたりまえのことであったが、経済優先社会の中で、食料は買ってくるものとの考えの中で育てる力、育てる愛情が失われているようである。
子どもを育てる心と、小動物や植物を育てる心は同じものである。それは共に育つ心でもある。
この心を蘇生させ、花一杯、歌一杯の保育を実践して行きたいと念じている。
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