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1997年5月

怠惰の春は欠乏の収穫を招来する。
人生とは何か、
生きている意義を見定め行動したい

春の彼岸の頃の、肌寒く、ようやく木の芽もふくらみかけていた山が、4月もなかばを迎えると緑一色に変わり、その緑の中に点々と山桜が咲き、ホトトギスの声が聞こえるようになる。山肌にはつつじの花が咲き乱れ、長い春の眠りから覚めて自然界は活気に満ちあふれている。

私達人間は、この生気の中で、生きる喜び、生きる楽しさ、その活力を得、人生を謳歌している。皆それぞれの歳の数だけこの春が訪れている。

同じ春でも、人間それぞれ思いは違い、その春の息吹も、人それぞれの心のありようで感じ方が異なってくる。私も74回の春を迎えてきたが、どの春もそれぞれ違ったように感じられた。

人間は自己中心的、自分の都合で生きていて、感情の変化も甚だしく、生活やさまざまな環境のなかでそれぞれの春を迎え、一生を過ごす。家族揃って花見を楽しむとか、職場のみんなで春を楽しむ心のゆとり、など心の世界を広げる大切さが痛感される。

限りある人生、限られたなかで生きている人間が誰しも愉快に楽しく生きたいという願望を持っていても、それを達成し楽しかった、と、天地や自然、兄弟、親子、出会いの多くの皆様に「ありがとう」と感謝し、人生を終えて天に召される事のできる人間はいかほど存在しただろうか。

人間誰でも、健康で幸せな人生を送りたいと願っている。そして自分の夢と希望を自由に口にし、行動に表して、思うこと、やりたいこと、自分の気の向くままに、そして人からの掣肘を受けることなく生きられたなら、このうえない喜びであるが、本当に人生を自由に生きてきた人は何人いるだろうか。

私達はそんな素晴らしい人生を夢見ても、現実にはなかなか実現できないのが人間社会である。

子どもの時のように、自由に生きる心を一体どこに忘れてきてしまったのだろうか。さまざまなしがらみや責任、社会通念といったものに縛られて行くが、それは本当に必要なきまりごとばかりなのかどうか。そんないろいろな諦めと焦燥で人生を埋めてよいものだろうか。

リマの日本大使公邸人質事件で、ペルー政府は日本時間23日午前5時32分、公邸に特殊部隊を突入させ、トゥパク・アマル革命運動のメンバー14人を射殺し、人質を解放した。救出時に人質のペルー最高裁判事と特殊部隊の兵士の計2名が死亡し、20数人が重軽傷を負った。しかしペルー政府が事前に人質達に突入を伝えていたこともあって、71人が救出された(日本人24名)。昨年12月17日発生以来、127日目のことである。

フジモリ大統領は突入後、公邸前で演説し、「テロリストの脅しに屈しないという模範を世界に示した」と述べた。橋本龍太郎首相も首相官邸で緊急記者会見し、事前に連絡がなかったことは「遺憾に思う」としながらも、フジモリ大統領らペルー政府関係者に謝意を表明した。

国会では「脳死は人の死」が衆院可決、参院では連休明け審議。

4月25日、日産生命保険の経営の継続が困難になったと判断、大蔵省は業務停止命令を出し、清算の手続きに入る。戦後の混乱期を除けば、生命保険会社の経営破綻は初めて。

予期しない出来事が、日常茶飯事のように起きている。私達がこの警鐘をどのように捕らえ、どう理解するかは自由であり定説はない。

このような思いもかけない出来事に遭遇する者、しない者がある。難を免れる者、わざわざ難に遭いに行く者、さまざまである。しかし、私達が生きているのではなく、生かしていただいているのだと思えたとき、感謝の気持ちが生まれます。それは幸せな人生を送るための潤滑油となります。

苦難に立ち向かい、戦い、そして突破すれば曙光が見え、大きく世界が広がってきます。

常にくじけることなく、全てに感謝し、生きる幸せにつなげていきたいものです。

「禍福は糾える縄の如し」と諺にいいます。幸せも不幸も、よりあわせられ、あざなわれた縄のように隣接してあるものです。だからこそ「禍転じて福となす」ことができます。天は私達人間に試練を与えて下さっています。如何にそれを克服して、幸せを手に入れるかが問われているのです。

激動の時こそチャンスである。落ちるのも早いが、昇るのも早い。激動がおさまれば安定し、安定は長く続く。激動の時代こそ諦めずに情熱を持って行動すべきである。この時に情熱を持って行動できなければ、激動期安定期を通じてものにはならない。しかし行動すれば何らかの結果ができる。どんなに大きな成果をもたらすか予想もつかない。

保育は理論でもなければ、何をしたか何をするかということでもない。マニュアルどおりに行動したところで、心が伝わらなければ意味はない。保育者や保護者が、何もできない自分と思っていてもそこに心があれば、子ども達は感じ取り、自分の力で成長を始める。どんな心で毎日を過ごしているか、どんな心で子ども達と関わっているかが大切なのである。

その中心としての役割を園長が担っている。保育園創立の原点に立ち返り、初心に戻って保育を再確認して望み、その意志の上にすべてが動いていく。園長の心の在り方が保育園の雰囲気や保母の心の在り方をつくっていく。重大な責任を一身に担っている。それぞれがどんな保育をしているかがうまくかみ合ってひとつの組織として働くために何をすればよいのか、個々の努力が実を結べるようにいかに配慮していくか、そして子どもが本当に楽しく成長していける場をつくりあげること。そしてその責任を遂行するためには、保護者の皆様のご理解と信頼とがどうしても必要です。

皆様が、ただ子どもを預けられればそれでよい、と思われたのではなく、本当に預けて安心できると納得されて大切な大切な子どもを任せてくださっているのだと信じています。ですから、皆、保育者としてできる限りの努力をしております。

保育についても、皆それぞれに考え方が違い、保護者の皆様とそれぞれの担任の物の見方、考え方も違います。皆様からみて理解しにくい保育者もあるいはいるかもしれませんが、皆、子どもが大好きで大事に思う心でいることは理解していただけると思います。すぐには判らなくても、心があれば必ず伝わると信じています。

保育は心です。心を測るものさしはなく、評価されにくいものですが、それがなければどんな物も無意味になります。保護者の皆様も、子どもの幸せについてしっかりと考え、自分の姿が子どもの手本となること、どのように自分が幸せをつくっていけるかを心に留めていただきたい。自分の生き様を子どもに伝えることが教育です。自分の心、自分の姿が伝わっていきます。言葉で説明することもできないけれども、子ども達の素直で純粋な心は、鏡のように周囲の姿を映していきます。言葉ではなく行動をみています。子どもほど大人の心をよく理解しているものはいないとさえ思えます。

この時期に、本物を与えること、本当に優れた人との出会いがあるかどうかで、子どもの人生が大きく変わってきます。そして、遊びの中からいくつもの喜びを見出し、そこからその子の能力が芽吹きます。じっくりとその子を見つめ、せっかく芽吹いた力を伸ばせるよう配慮してやりたいものです。

保育という事業を始めて30年、子ども達に教えられ、多くの人に支えられて今日まで来た。考えれば考えるほど保育の大切さ、奥の深さを感じる。素晴らしい仕事、社会にも非常に意義のある仕事をさせていただいている。私自身が夢を持ち、冒険する心を持っていることが、子どもに夢や冒険心を教え、新しい時代に対応する力を育てることと思っている。そして、今、保育園に来ている子ども達が21世紀に通用する人材となることを念じています。

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