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2000年2月

20世紀を回顧し
21世紀を展望し
人間育成の根幹について考える

心配されていた2000年問題も、大事もなく、暖かく天気もよい新春、混乱もない年明けを迎えて1ヶ月。2月を迎えます。
2月と言えば立春の候で、保育園では豆まき誕生会。この一年まめ(健康)であるように、という無病息災の願いを込めて行います。
「まめ」とは良く言われますが、かねがね不思議な言葉と思っておりました。広辞苑によれば、
まめ(豆)・豆科に属する植物のうち食用とするものの総称
まめ(肉刺)・履物との摩擦や荒仕事のために手足にでる豆のような水腫
まめ(忠実)・(1)まごころがあること、まじめなこと。信実。誠実。じってい。本気。神武紀「心を傾け命を委(よ)せて、忠誠(まめなるこころ)を尽くさむこと」
       (2)労苦を厭わずよく勤め働くこと。
       (3)身体の健全なこと。たっしゃ。息災。

辞書の中にはこのような多くの語句が載っている。
日本語、日本の言葉は意味深長で、毎日何気なく言っている言葉にも深い意味がある。我々の先祖が築きあげた日本人の心、文化を見直さなければならない時期が来ていると痛感する。
私も何気なく、節分の豆まきに「豆をまいてまめ(健康)になりましょう」などと言っていたが、本当にまごころを持って生きていきましょうと、子ども達に大切な「まめ」の意味を伝えていかなければと痛感した次第です。
まごころを持って生きることが、今如何に大切であるか、まごころが欠けるとどんな結果 が生じてくるか、21世紀に向けての人類の大きな課題だと思う。
まごころが健康の泉であり、まごころが信頼につながり、人間関係が膨らんでいく。良い人との出会いは人生を豊かにし、生涯の幸せに通 じていく。
類は類を呼ぶ。同質は結集していく。自分の周囲には、自分に等しい人が自然に集まってくる。
地域も一人一人が支えることで構築されている。一人一人の行動が地域を変え、発展させる力となる。
今年は20世紀最後の年である。私も20世紀の大半、実に77年を生かされ、ことし78年目にかかっている。その歴史と共に歩み、その中で生活し、人生経験を積んできた。私が夢にも思わなかったようなこともたくさん現実となってきている。私の子どもの頃は自給自足が当然で、お金の支払いは盆と正月だけで、その他はお金がなくとも暮らす事ができた。現金を持ち歩く必要も財布の必要もなかった。岡山に出てきて32年、お金が無ければ生活ができない不便に驚き、出来る限り手元に現金を持つようにしてきたが、時々お金を持たなくても生活していた頃の癖が出る。
農村の生活はそのような自給自足社会で、食糧にしてもその土地で出来るもの、取れるものでまかない、だいたい3里(12キロメートル)四方が生活圏で、季節の旬の作物を食べて、漬物や味噌などは各家庭で作り、醤油などは集落で共同で作ったり、私の故郷では地域の信用購買、販売、利用組合を作り、皆で力を出しあって仕込みや醸造などの作業をしてきた。母や祖母は糸を紡ぎ、綿糸を作り、機織をし、布を作り、着物も自分達で作ってきた。海から遠い山奥の村なので、海産物はいりぼしが味噌汁のダシで、それすらも倹約。生魚などはほとんど買ったことがなく、もっぱら塩鰯、塩鯖、塩あみ、または干魚類であったが、庚申様をはじめ、年神祭、仏祭などの行事の中で限られた食材ながら四季色々の調理が工夫され、食卓の楽しさを味わせてくれた。
衣類も事欠く中で、女性は夜なべで、針仕事繕い物に忙しく夜遅くまでやってくれていた。小学校の先生の話の中で「アメリカでは繕い物は一切しない。破れたら捨て、新しいものを買うのだ」ということで私達はびっくり仰天したものである。そんな国があるとは夢にも思っていなかった。
私の幼い頃、大正時代に家に電灯がつき、ランプ生活から電灯に変わったが、その電灯も貧しいため一つしかついていない。夜はランプを使用し、朝起きてランプ掃除をするのは子どもの役目であった。そのランプも本当に必要と認められる場合しか使用せず、夜勉強するなどは特別 の場合を除き禁止されている状態であった。そういう時代の記憶があるため、今でも電気の無駄 使いをしていると非常に気になる。
田舎にいると自動車を見ることもなく、オートバイ、乗用車、トラックなど来ると遠くから子ども達が集まってくる。自転車ですら数少なかった。人力車も車夫がいて動いていたし、運搬には牛車や馬車が使われていた。
私の叔母が林野高等女子校に通っていたが、往復15・6キロを歩いて通学していた記憶がある。昭和に入ってから自転車屋があちこちに出来、小学校も6年くらいで自転車の練習をして坂を転んだこともある。
物心ついてから今までの70数年あまりの間に生活環境は一変した。
食糧は世界各地から輸入され、衣料品はブランド品と称されるものがあちこちに氾濫している。
住居は山から木を切り出して大工が手仕事で手間をかけて生涯かかって作っていた。今は30代、40代で家が建てられる。その木材はほとんど外国産である。都市では鉄筋コンクリートの高層建築が林立し、調度品も昔とは雲泥の差である。
アメリカでは各戸に1台自家用車があると聞いて不思議な思いであったが、今日の車社会はそれ以上の状況にまで変化している。飛行機も今では世界各地を飛び回り、気軽に利用されるまでになった。
ラジオも大正の終わり、昭和の初めには田舎では聞けなかった。私の家では、叔父が外国航路の船員であった関係で、物心ついた頃には、庭先に高く柱を2本立てアンテナを張ってラジオを聞く事ができた。今のように精巧でなく、聞きづらかったが、それでも貴重な1台であった。今では車の中でも歩きながらでも聞けるし、機能も段違いである。
テレビは昭和30年代になって見えるようになり、テレビで今上陛下のご成婚の様子を見る事ができたが、田舎では数軒ある程度で、近所の人が我が家に集まって一緒に観覧したものである。
電話が村役場にいつ設置されたのかは知らないが、私が青年師範学校を卒業した昭和17年には、勤務先の岡山市富山青年学校のすぐそばの富山村役場には電話が設置されていた。私はそれまで電話をかけたことがなかったが、校長先生に役場の電話で用件連絡をするように指示された。初めての事で戸惑ったが役場で使い方を教えてもらって何とかかけた。それが5・60年前のことである。今では世界中に電話がつながり、携帯電話で歩きながらでも話ができるようになった。
計算機も、私が保育園を始めた昭和40年代の初め、当時は経理は算盤で行い、計算間違いをして数字が合わなくて困ったり時間がかかって書類の提出期限に遅れたりした。またインフレによって貨幣価値が下がると、数字の桁が増え、間違いやすく大変苦労した。昭和40年代後半から卓上の計算機を使用するようになり、昭和の終わりから平成になってからパソコンの時代がやってきた。保育園もパソコンを導入し、給食の栄養計算や給料計算などするようになった。私のような老人にはそれを使用することは難しいが、2000年問題で世界中が大騒ぎするほどコンピューターが普及し、日常化している。
20世紀初頭に、わずか百年後のこんな時代を予想できた人がいたでしょうか。
そしてこれから迎える21世紀はどんな時代になり、人類はどう生きるべきなのか、私達は充分に考えて行動しているだろうか。人間社会は人間が作る。その人作りの根幹が狂うと大変なことになる。私達はまごころを見失うことなく本当に人間らしい社会を作ることのできる子ども達を育てていきたいものです。

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