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1999年12月

子ども達は道なき道を行き、答えのない未来に向かって歩む。
一人一人が創造の世界に生きる。
子育てとは何か、保育とは何か、保育の原点に迫りたい

今月で1999年が終わり、2000年の幕開けであり、20世紀最後の年を迎える。終わり良ければ始まりも良い。前途も明るい。楽しい保育園生活のなかで夢を広げ、逞しく生きる力を育ててやりたい。子どもを取り巻く環境づくりは大人の責任である。
高島第一保育園も開園32年、今年度も余すところ4ヶ月、三分の一を残すのみとなった。この三分の一がよい実りをもたらすためには、前の三分の二の保育が充実していることが必要となる。
これからは日が短く、寒い季節を迎える。ともすれば活動が鈍化し易い。しかし、前半に意欲的に活動した子ども達は、この時期こそ逞しく成長する。大人は寒いからとテレビを囲んで暖房の効いた部屋に入り込む。夏にしっかり鍛えた子ども達は寒いからと愚痴一つ言わない。寒くなれば暖を求めて、また自分のやろうとすることに挑戦し、飽くことを知らない。反復して同じことを繰り返し、ついにはやり遂げようとする。
目標が高ければ高いほど、時間と努力を要するが、その過程の中で工夫し、いろいろなことを経験して、生きる力を養い成し遂げた充実感は大きい。それは一生涯心の奥底に、無限の歓喜の源として、いつまでも存在する。自ら開拓し見い出した宝物である。
物事は早く出来たから良いのではない。遅くても苦労し、努力を繰り返して苦難の中で成し遂げた喜びと達成感はひとしお味わいがある。
このような積み重ねの中から色々な人生体験を育て上げて行きます。
大人は子どもの成長を、出来る出来ないという枠の中に閉じ込めて、見過ごしにしてはいないでしょうか。寝返り、這うこと、歩くこと、言葉を発すること、大人から見れば当り前のことに見えますが、どれも、その時期の子どもにとっては当り前ではなく、それぞれの大切な成長過程である。
寝てばかりいた子どもが、寝返りを打てるようになる。ささやかなことでも出来た喜びは顔いっぱいに表われる。その子の努力と成長を認めて、出来た喜びを親子共に分かち合え、その子なりに夢と希望を持って、目標に向かっている姿は微笑ましい。赤ちゃんは自然に這い、歩いているのではなく、それぞれの段階において生きる目的に向かって努力しているのである。
私達は漠然と這うこと、歩くことは人間として当然の行為と思っているが、もしも人間の大人がその手本を赤ちゃんに示すことがなかったなら、果たしてどんな成長をするのでしょうか。
人間は他の動物には類を見ない、幅広い言葉の世界を持っている。何気ない考えの一つ一つは、その言葉で形成されている。その言葉は相互に翻訳可能で、そのため離れた土地の人や外国の人とでも交流ができる。
しかし、もしも人間が言葉のない、無人の世界で育ったなら、今のような交流は到底できないことと思われる。 私は保育園開設32年、5千名に近い子ども達と関わってきた。
言葉が遅れている、なかなか出ない子どもを抱えて相談に来られたり入園を希望される方がある。生まれつきの体質もあるが、言葉を発しない、発することの出来にくい子育て環境が見えてきた。
大人達は、しばしば人間は言葉が言えるのが当り前だと思っている。自分たちが言葉を喋っているから、生まれつき喋れるものと思い込む。こう思い込んで充分な言葉がけもしないまま、2歳児になって喋らなかったり、3歳児になっても言葉で自分の意志を充分に伝えることができない子どもの姿に驚き、同年齢の子どもと比較して言葉の発達が遅れていることに気付き、慌てて保育園に相談に来られる。
今の社会は、閉鎖的な社会で、母親と子ども2人ばかりで過ごすことが多い。母親が誰とも話をすることがなく、話をする姿を見なければ、子どもも自分から言葉を話すことはない。テレビの話す言葉は子どもにとっては現実味がなく、意味のある言葉として受け取られない。食事や排泄も子どもの要求よりも先に用意され、与えられていれば、子どもは言葉を発して自己主張をする必要が生じず、言葉を必要と感じないままである。また、近所の友達と遊んだり、話をする機会もない。聞えてくるのはテレビからの一方的な声だけで、お母さんもテレビ浸けになって、声を出さずに生活している。
このような環境のなかで、言葉の発達はありえない。しかしそのことに気付くのははっきりと言葉の遅れが目だってきた後である。1歳頃に早くに気付けば、遅れも早く取り戻せるが、3歳、4歳と大きくなってからでは発達の遅れを取り戻すのも次第に難しさを増してくる。
かつての農村のような、人間関係豊かな地域社会、近隣に親類縁者も多く、大家族の中で育っていれば、このような心配はないが、現代の核家族化した社会の中で、考えられないような事が起きている。言語ばかりでなく、実に広範囲に亘って子ども達の育つ環境が失われてきている。今まで当り前にあったたくさんの大切なものが消え去ろうとしているのに、それに気付かない大人も多い。
科学優先の時代は、伝統文化破壊の時代でもあったが、その科学信仰に充分な理論根拠の裏付けがないことも多い。 栄養学にしても、家庭料理や郷土料理は、栄養学で築いたものではない。家庭の伝統の中で創意工夫し、家で栽培したり、その地方で育った食材を使って調理し、食卓に乗せ、食べてきて今日がある。「おふくろ」の味となって伝承された食事で私達は生きて来た歴史である。そして、食事を通して、自然の恵みに感謝し、農作物を育て、調理をしてくれた父母に感謝し、先祖に感謝して、残さぬように粗末にしないように大切にしようとする心が、自然に人間育成の根幹となり、生きる力となる。助けあい、協力する心も、暖かな家庭への感謝から、社会の一員としての役割に気付き生じてくるものと思う。私達人間は、いろんな経験、体験の中で生きる力を得て今日を迎えている。
私達がこれから生きて行く世界は一定の方程式も、順序もない。一人一人の歩みについても、明日の日は全く予想のつかない未来が待っている。私達は、そんな道なき道を歩いていかなくてはならない。答えのない人生を、自分で答えを創造して切り開いていかなくてはならない。人にはその人の生き方があり、自分には自分の人生がある。自分の人生を創っていくのは自分以外にない。人からのアドバイスや助言は素直に受け止めながらも、決定は自分である。しかし自分の人生は自分一人のものではなく、己を取り巻いている大切な人達がいる。家族や友人や仕事の上司、部下、同僚、協力してくださった方など多くの人に守られて自分がある。そんな人達の恩に報いる最善の方法とは何かを常に念頭に道を選択していかなければならない。
一日一日が大切で真剣勝負である。今日という日は二度と来ず、今、選んだ道は選び直しがきかない。
幅広い視野に立ち、将来の展望を見通し、豊かな知識と自分の道に立ち向かう勇気が必要である。
何よりも大切なことは、良い人、本物の人間との出会いと交わりである。
今、家庭も学校も地域もなにもかもが崩壊の危機を迎えている。その中で、自分自身がどんな考えを持ってどんな心で生きているのかが試されている。21世紀を間近に控え、大きな時代のうねりが眼前に立ちはだかっている。この時に自己改革をして取り組むか。21世紀が人類にとってどんな世紀となるか、それは人類の存亡を賭けた大きな選択である。
「学幼児」幼児に学べと常々提言していますが、人類の未来はこの子達の肩にかかっています。その大切な子ども達の健全な成長発達を目指し、社会の中で人材育成を図るために、社会ぐるみでもっと子育てを真剣に考え、行動していかなければならないと考えています。より一層のご理解をお願いしたします。

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