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明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。 光陰矢の如く、あっという間に年が過ぎ去ります。高島第一保育園もこの3月で満32年、第32回の卒園式を迎えます。第1回卒園式の時の私の年齢はすでに44歳を過ぎていた。この1月10日には満76歳である。 生かされていることに感謝し、自分の人生の終着までに成すべき事は何か、やり遂げるべき課題は何か、有限の人生をどう生きるか、それは人間誰もが持っている課題である。この課題に私なりに挑戦しつづけているが、時間の大切さを年を追うごとに強く感じる。限られた時間と生命を大切にして精一杯自分の使命を果たして我が人生を謳歌したいと念じ、今年も素晴しく幸せな年であったと心に残る、そんな年にしていきたいと思っている。 元旦には書き初めの半折に自分の思いを認めました。今年の抱負として天に誓い精励努力していきたいと念じています。
『報恩感謝者授先祖吾生命体之 為育成而子孫垂統成事也』 (報恩感謝は先祖から授かった吾が生命体の育成と為し而して子孫に垂統成す事なり)
先祖から生命体を授かっていることに対して、手を合わせて「ありがとう」と感謝の気持ちを表わすことは当然の行為だが、私は自分の生命体が人類の発生以来連綿と受け継がれてきた流れの中で、より良いものとして子孫に垂統する重大な使命を与えられていることを思う。遺伝子によって身体だけが垂統されているのではない。霊魂は不滅であると言われる。目には見えなくとも心や魂も遠い昔に精一杯生きて来た人々から受け継がれて今日がある。それを次の世代に継承し垂統していく重大な使命をもって私達は誕生している。 そのことを忘れた戦後50年の教育・政治・経済は社会の様相を一変させてしまった。これを回復させるのは一朝一夕にはできない。古来から受け継がれてきた思想や哲学は社会の片隅に押しやられ、それを説く者は周りから冷笑を浴びせられる。しかし自分の拠って立つ大地を嘲笑するべきだろうか。 日本人が日本人であることを否定し、やみくもに欧米の生き方に迎合して、今日の混乱がある。政治の在り方も経済的発展のみを追求め、日本はかくあるべきという信念を持たず、ただアメリカの占領政策に追従し、平和憲法を掲げ軍事力は持たないと言いながら自衛隊を作り、日本各地に米軍基地が存在する。このような混乱の様相を諸外国から見れば、得体がしれない不気味な国と映り、あるいは信念の無い国家として軽蔑を買うのも無理はないと思われる。しかもこのような矛盾は到る処に見受けられる。 このような国家であり続ければ、日本の存続さえ危ういのがこの20世紀末である。「砂上の楼閣」と言うが、今の日本を言い表すのにこれほどぴったりな言葉もあるまい。この時代をどう乗り切り、どんな新しい時代を切り拓くかは、私達一人一人がどう生きるか、人生について真剣に考えることにかかっている。 日本が敗戦により大都市は焦土と化し、食もなく住もなく衣もなく、疲弊しきっていた戦後の状況から、昭和37年に池田内閣が誕生し所得倍増計画を策定し、昭和40年代に入って景気がよくなり、平成6年頃より経済に不安がきざしはじめた。その間約30年、その内で経済大国日本と言われるようになってわずか20年の歴史もない。 そして今、日本の経済不況は、世界全体に影響を及ぼし、世界的に先行き見通しの無い不安な状況におかれている。日本は金融再生委員会によって金融サービスの抜本的改革・再編という将来ビジョンを打ち出しているが、欧州連合(EU)の単一通貨「ユーロ)が1月1日午前零時、仏や独など11ヶ国に導入され、そして国際舞台に登場し、世界の金融市場で取り引きが開始される。「ユーロ」は将来はドルと並ぶ基軸通貨になると見られており、米ドルが圧倒的に力を持つ現在の世界経済の状況を変える潜在力を持つと言われる。このような刻々と変化していく流れの中で、日本の将来は不安に満ちている。 平成11年度の国家予算は80数兆円、その内国債の発行が30兆円を超える。国・地方債を合わせると累計で800兆円で、まさに天文学的数字であり、この結果、我が国にどんな異変をもたらすのか想像するも恐ろしい。 歴史は循環する。私は大正12年に生まれた。大正7年の第一次世界大戦は日本に好景気を齎したが、昭和4年10月にはアメリカの株価暴落によって世界恐慌が引き起こされた。日本も不況のどん底となったこの年、私は小学校に入学したばかりであった。やがて経済の行き詰まりを何とか打開しようと大陸に進出し戦争となり敗戦で終わる。子どもであった私達は、その中で生きてきたが、親達は筆舌に尽くし難い大変な苦労をして私達を育ててくれた。 私の骨髄にまで堪えたこの時代の苦しさは、私の中にひとつの危惧を育てた。今の時代とあの時代とがあまりに似通った状況で、歴史が繰り返すということである。ただ今の日本と大正から昭和にかけての時代とは、物質的な豊かさの度合はまるで違うので、日本がどの程度底力をつけているのか、あるいは豊かさに慣れ切ってこれから予測される困窮に対応することができるのかどうかは全くの未知数であるが。 ただ教育の在り方は、知的なレベルは向上したかもしれないが、心、精神、魂という計測不可能な領域においてはかえって低下しているように思われる。自主性に欠け、欝屈した不満を蓄積させて為す術を知らず、他人を傷つけることを平気で繰り返す人間が増えているように思われる。自分の権利ばかりを主張し人としての義務を果たさない自己中心的な生き方が、他でもなく自分自身を傷つけていることさえ気付かない。過去の日本人が営々と築いてきた良いものが次第に崩れ去ろうとしている。 この現在の状況は付け焼き刃の研修会や道徳教育や訓示などではとても改善はできない。複雑怪奇な学校教育の制度に、真面目で誠実な教師ほど、がんじがらめとなり身動きがとれなくなっている。この体質を根本から変える必要があるが、文部省の官僚は、殆どが子どもを知らず人間を知らず、自分達が受けてきた高等教育・大学教育が最高と考え、教育の在り方に疑問を持ったことのないエリートで、脱落することの辛さや子ども達のおかれた状況の厳しさを理解出来ない。その彼等に教育改革を考えることがそもそも無理なのだが、教育改革について真剣に考えている人は皆、現場の人間で、教育行政に関わることができないという矛盾が生じている。 しかし人間育成に関わる教育改革こそは何よりも先んじて行われなければならない重大な課題ではないだろうか。 今年は統一地方選挙の年であり、政治改革の時を迎えている。金と組織がなければ立候補することもできないという現在の政治の体質は、よい人材の政治参加を阻み、人材が出てもその政治理念の理想の達成を困難にしている。このような体質の中では本物の政治家は育たない。 変革の年には、理想を持ち政治に情熱を持って今の政治から脱皮しようとする若い人材が求められている。そのような人材を選び、育てていくのも国民の義務だと思う。まずはじっくりと候補者の考えを聞き、人となりを見定めて、目先の利益や縁故の有無といった個人的な物差しでではなく、本当に良い人材に一票を投じることである。 政治批判ではなく、一人一人が自分の選挙権を大切にすることが、政治改革の第一歩と思う。 岡山市長選の結果もこの1ヶ月後には定まる。岡山市の未来図もこの選挙で方向が決まる。市民の大切な一票である。 去る12月25日には、恒例の岡山県器楽合奏大会に五歳児が参加して演奏した。毎年参加をしてほぼ20年、昨年に続き今年も優秀賞をいただいた。評価は「笑顔と楽しさ一杯の演奏を感じた」との事で、審査員が子ども達の心を読み取って評価されたことは素晴しくもあり、有難いことだと思っています。保育はまさに子どもの心を保育者が読み取り、その心を育てることである。 今年1年1月付けの山陽新聞は、「21世紀へどうひらく、地域の活路」の大見出しの中に「多様な保育環境を作れ」「安心、楽しさと育児」このような論議が今年ようやく新聞の話題に取り上げられた。 高島第一保育園の保育実践は、画一的な保育行政の狭間の中で常に行政から指摘されながらも、子ども達のために保育の在り方はどうあるべきか、本物の保育を目指し今日を迎えた。教育界からは低く見られ、子どもの姿が人間の原点であり保育が教育の原点であることも知らないし、知ろうともしないまま教育行政に携わってきた人々に問題を提起しつづけてきた。 教育はばらばらではなく、幼児教育、小学校教育は連動して行われるべきで、幼・保・小の教育資格の差別をなくし、幼・保の現場にいる保育者を小学校に登用し、小学校教育の変革への道を講ずべき時を迎えている。教育は理論や知識でできるものではない。人の心を汲みとり、行動する本物の教育者によって新しい学校教育を構築すべきではないかと思う。 これからは本物の時代であり、本物が時代を変えていく。日本人がその大切さを理解し、本物を選択し始めれば、時代は急速に変化をする。21世紀を目前にしたあと2ヶ年は変革のための激動の時代である。自己を磨き意識を転換することが生きる道である。 保育園においては利用者選択の時代が始まった。我が子の運命は親が何を考え何を選択するかにかかっている。そのための教育、人間育成に対する意識が問われる。 激動の時代はチャンスの時代でもある。やり甲斐のある一九九九年の幕開けです。この一年は、又とないチャンスが与えられている年です。頑張りましょう。 |
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